今回は、ほぼ最新刊の紹介です。「はじめに子どもありき」の続編になります。この本は前回ブログで紹介したのでよろしければご覧ください。
今回も私が時に印象に残った部分を2点に絞って以下に書いていきます。先に結論を書いておきます。本書を読んで感じたことは、「子どもの見取り」と「教科教材の研究」の両輪でバランスをとりながら授業を作っていくことが大切であるということです。
結論に至った経緯について以下に詳しく書いていきます。皆さんの参考になれば幸いです。
1子どもの見取り
授業者であれば、子どもを見取る際には、子どもに寄り添い、子どもと共に追究し、学ぶ一人として、また子どもと共に生き、成長していく一人として見取るようにしたい。それは、担任の教師であればこそできることがある。
ところで、否定的、批判的な見取りは、見取ったことについての語りや記述が三人称でなされることにより助長されていると考えられる。そこで、第一人称で、すなわちその子どもに自分がなったつもりで己の心の内を語れるようにしたい。
『「はじめに子どもありき」の理念と実践』より
子どもを理解しようとする姿勢は非常に大切です。ただ、完全には理解することはできないということも頭に入れておく必要があります。
適切な見取りがあるからこそ、子どもと信頼関係を築くことができ、よい授業・学級経営ができると思います。ただ、見取るというのは本当に難しいと思います。
今は肌感覚的な感じで、不穏な状態や悩んでいる状態がわかるようになりました。また、その子の持ち味を見取って伸ばすことができるようにもなってきました。
上記の引用にもあるように、見取る上で大切なのは「自分がその子どもになったつもりで見取るようにする」ことだと考えます。
私も若い頃よくあった失敗として、子供を見取る時にどうしてもネガティブな部分を記述してしまうことがありました。特に、支援が必要な子どもは自分の大変さを皆に共有してほしいといった思いもあったのかも知れません。
そうなると、担任以外もネガティブな解釈で児童を見るようになってしまいます。だからこそ、できるだけ子どもの気持ちになって見取っていくことが大切です。
本書にも書いてありましたが、気をつけなければならないのは全てが合理的な理由で行動しているわけではないということを予め意識しておくことです。
子どもはもちろん、自分でも行動に対して合理できに説明できないことがあるんじゃあないかと思います。他人を見取る時にこのような落とし穴があることを認識することは非常に重要なポイントとなります。
今度指導案を書く際に、取り入れみようと思います。
2教科学習と総合
教材を決めるにあたって、子どもの求めや願いに基づいて題材が決まる総合学習であれば、子どもがかかわり、追究していく教材(総合学習の場合は材)は、子どもがそこに追究する価値を認めるか感じるものになる。しかし、教科の学習の場合、教材としての価値があると教師が思うものでも、子どもは教材を見たり、読んだりしただけではすぐに追究する価値がわからないあるいは感じられないことがある。その場合、子どもがその教材に追究する価値を認めたり感じたりするような支援が必要になろう。
『「はじめに子どもありき」の理念と実践』より
そうです。これなんです。これにみんな悩んでいるのだと思います。「はじめに子どもありき」と言いながら、「はじめに教材ありき」になっているという現状があります。
学習指導要領には法的拘束力があり、指導しなければならない内容です。それに準じた文科省の検定教科書があるので、私立に行く以外は基本的にはこの流れからは逃れられないです。
もちろん実態に応じて指導の順番を変えたりと柔軟性はありますが、日本の教育システムは最低限は同じ内容を教えていかなければというスタンスです。
国語や算数でどのようにして子どもが主体的に学んでいくかということを、ここ数年は考えていました。ただ分かったのは、学習する内容によるということです。
子どもありきでできる単元もあるし、できない単元もあるということです。
だからこそ、一人ひとりの教員ができる限り、子どもありきの価値観で教材を見つめ、自分の受け持っている児童の見取りを行った上で教材を開発していく必要があるんです。
なんとなく思ったのですが、全国で同じようなことをやっているのえあれば、一つのデータベースに実践をまとめていけば良いなと思いました。
私が知らないだけで既にあるのかも知れませんが。ただ、「子どもの見取り」✖️「教科教材の開発」の視点を持つだけでも若い人にとっては非常に重要なことだと考えています。
特に、いわゆる情緖や知的に厳しいクラスでは、この考え方が非常に重要ではないかと考えています。
以上が、『「はじめに子どもありき」の理念と実践』を読んで考えていることになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。