『遊びが学びに欠かせないわけ』読んで、未来の学校に必要だと感じたこと。

久しぶりのブログ投稿です。最近「遊び」が気になっています。以下、Wikipediaの遊びの定義です。

遊び(あそび)とは、知能を有する動物ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある(詳細後述)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E3%81%B3#:~:text=%E9%81%8A%E3%81%B3%EF%BC%88%E3%81%82%E3%81%9D%E3%81%B3%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81,%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%EF%BC%88%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E5%BE%8C%E8%BF%B0%EF%BC%89%E3%80%82

改めて、この引用文を読むといかに「遊び」が大切なのかがわかります。「心を満足させることを目的とする」この部分に非常に共感を覚えます。みなさんは遊びで心を満足させているでしょうか。

また、ゆとりがあることに対して「遊びがある」という言葉を使います。これは、遊びがゆとり、余裕がないとできないことだということですよね。車などの機械でもハンドルに「遊びをもたせる」ということをしています。

私が、子どものころは何も考えずに遊んでいた気がします。家でスマブラもやったし、外で夜になるまでバスケをしたりひたすらに友達と走っていた記憶があります。

大人になると、意識しないとやることに追われて遊ぶのが下手になっていった気がします。そう考えると、子供は遊びについては天才的で娘のごっこ遊びなどをみていても単純にすごい想像力だと思っています。

前置きが長くなりましたが、今回は『遊びが学びに欠かせないわけ』という本を読みました。この本は、アメリカの本で教育の本だけども文化人類学の要素があったりして非常に味わいの深い本でした。

読んで思ったことは、「今の学校は遊びがなさすぎる!!」ということです。昔からそうなのかもしれないですが、今の学校もやることが増えていて子どもたちが苦しそうです。

そこで今回のブログは、遊びがなぜ大切か、どんなパワーがあるのかを述べた後に、学校教育での遊びの取り入れ方を提案していきます。みなさんの参考になれば幸いです。

1自由な遊びについて

自由な遊びは、子どもたちに自分は無力ではないことを教える自然な方法です。大人から離れた遊びの場では、子どもたちは自分のしていることをコントロールしており、実際与えられた権限を行使しています。自由な遊びの中で、子どもたちは自ら決断すること、問題を解決すること、ルールを作ったり守ったりすることを学びます。(中略)遊びの際の重要な感情は、「興味関心」と「喜び」です。

『遊びが学びに欠かせないわけ』より

遊びにとって一番大切なのは、「自由であること」なのかもしれません。むしろ強制された遊びはもはや遊びではないかと。上記の引用にある通り、自由な遊びの中で子どもたちはさまざまなことを学びます。

特に、遊びの中で自分がしたいことをコントロール・調整しているということが非常に興味深いです。いまソーシャルスキルトレーニングなどで社会性を身につけるといったことが言われています。私は、遊びでそれが十分に身につけられるのではないかと考えています。

今の学校は、自由に遊ぶ時間がほとんどなく、授業中で少しでも遊ぶと「しっかり学びなさい!」ということになってしまいます。授業中にも意図的に「自由な遊びの時間」を各教科と価値づけて取り入れても良いのかもしれません。

実際に私の経験でも、自由な遊びを取り入れたことにより、それまでよりも友達同士の関係性が良くなり、学びの意欲も高まっているといったことがあります。

家でも娘たちが自由な遊びをしている時はすごく楽しそうです。もちろんケンカもしますが、それも大切な学習であり、自由な遊びから学ぶことはたくさんあります。

2発達障害と学校

学校の外の現実の世界では、「個性の多様性」と「知識の多様性」は大切にされています。成長する際の課題のひとつは、自分の個性がもっとも馴染む得意分野を見出すことです。しかしながら近代的な学校には、ひとつの裂け目しかありません。個性が他の子たちと合わない子は、失敗した者ないし、「発達障害」を患っていると見なされます。

『遊びが学びに欠かせないわけ』より

これは、社会と学校の違いだと思います。社会は、多様性が大切だといい、学校もそうなりつつはあります。ただ、実際には、学校は「学力」という価値に非常に重きを置いていて、それから外れてしまう子の居場所があまりありません。

学力以外の価値の多様性という視点では、学校はまだまだだなと思います。

これはさまざまな意見があると思いますが、「発達障害」は余白の意味での「遊び」があればそこまで問題ではないのかなと思っています。

学力を高めるためにやらなくてはいけないことが多いため、教師も子どももしんどいのです。10年後の学習指導要領改定では、もう少し標準時数も減っているといいなと個人的には思っています。

ただ、あまり文科省には期待はできないので子どもに一番近い学校の価値観が変わるのが一番ですね。

まずは、少しずつでも変えられるよう地道に取り組んできます。

3遊びのパワー

(1)遊びは、自己選択的で、自主的である。

(2)遊びは、結果よりもその過程が大事にされる活動である。

(3)遊びの形や規則は、物理的に制約を受けるのではなく、参加者のアイディアとして生まれ出るものである。

(4)遊びは、想像的で、文字どおりにするのではなく、「本当の」ないし「真面目な」生活とはいくらか意識的に解放されたところで行われるものである。

(5)遊びは、能動的で、注意を怠らず、しかもストレスのない状態で行われるものである。

『遊びが学びに欠かせないわけ』より

自由な遊びは大切だと始めに述べましたが、どんな遊びが良いのでしょうか。上記に遊びの条件のようなものを引用しましたが、私が特に重要だと考えているのは、(2)と(4)になります。

今まで読んできたの多くの本に書いてあるのが、「結果よりも過程が大切である」ということです。結果が大切だというのもわかります。ジョジョの奇妙な冒険では、よくディオやディアボロが結果こそが全てということをおっしゃっています。

ただ、遊びに関してはルールを決めたりコミュニケーションを取ったりすることが大切です。子どもの遊んでいる過程を見ているといつも驚きと発見に満ちています。

ただレゴで遊んでいるだけではなく、ちゃんと自分がどんな理由でどのように作ったのかを全部言語化して伝えることができるのです。これは本当に凄いことだと思っています。

(4)の本当の場所ではなく意識的に解放された場所で行うということも興味深いです。別に特別な場所に行く必要はないのですが、自分の意識を解放できる場所はあるのではないかと思います。

教室の机と椅子ではなく、隅っこのゆかとか自分の意識を解放して夢のような時間を過ごせる場所があるのではないかと思っています。

そんな場所を学校に作ることができればもう少し、余白ができ教師も子どもも楽しくなる場所になると思っています。

以上が、『遊びが学びに欠かせないわけ』読んで、未来の学校に必要だと感じたこと。になります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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