さて、今日もブログを書きますよ!今日は、走ることについてです。去年の年末から少しずつ走ることを続けています。今の職場では、なぜか走ることが好きな人がたくさんいます。
そして明日、駅伝大会があります。距離自体はそこまで長くないのですが、参加するにはそれなりに走れるようになりたいわけです。
そして、その勢いで3月に行われるハーフマラソンも申し込んでしまいました。となれば、やはりフルマラソンも走ってみたくなりますよね。
ということで、今年の目標の一つをフルマラソン完走にしようと思います。そのために、ランニング・マラソンに関する本を何冊か買って、走りながら実践を行っています。特に、ストレッチのやり方は目から鱗でした。
そして、今回紹介する『走ることについて語るときに僕の語ること』は村上春樹さんが書いたエッセイ集です。私は村上春樹とはあまり相性が良くないなと思ったのですが、この本は別格でした。非常にいい本です笑
この本は、「走ること」自体のモチベーションを爆上げしてくれます。今回はその中で私が感動した部分についてまとめてみました。皆さんの参考になれば幸いです。
1走る理由
同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。
『走ることについて語るときに僕の語ること』より
この上記の引用だけでも走る理由になるなと思います。この文章は実は、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」に近い感覚なのではないかと思います。
自分自身を最大限に発揮するという意味では、「走ることは爆発だ!」とも言えるし、小説を書いたり、陶芸を作ったりすることにも大きな関係があるなと思いました。
村上春樹が言うように、人生にとっても大切なことなので、この言葉を胸に走り続けたいと思います。
2走ることは苦しい
苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くことができる。
『走ることについて語るときに僕の語ること』より
私は走ること自体は今まで嫌いで、「何が楽しくて走っているのだろう❓」と思っていたレベルでした。特に長距離は苦手で、子どものころからマラソン大会は憂鬱でした。
私はどちらかと言うと、短距離タイプで長い距離は全く走れる気がしなかったのですよね。また、マラソン大会は順位が決まるから、それも嫌でした。
そんな長距離苦手人間の私ですが、村上春樹先生はもともと走ることは苦しいとおっしゃっています。ですが、その苦しみは生きることの実感に関わってくるといいます。
私は、人と比べるから長距離が苦手だったのかもしれません。自分のペースで走って、自分と戦うと言う意味での苦しさは受け入れることができそうな気がします。
また、ここでも過程(プロセス)の大切さが書かれています。走った後の記録ではなく、走っている過程の中にこそ、生きることの価値が内包されていると上記の引用を読んで感じました。
だからこそ、走ることを続けていきたいですね!
3走り続けるということ
大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。
『走ることについて語るときに僕の語ること』より
上記の引用は、これまで走り続けてきた村上春樹だからこそ説得力があります。確かに、フルマラソンを走り続ける。だけども年々老化によりタイムは落ちていく。
それなのになぜ走るかと言うことですよね。私はまだ30代なので、記録も狙おうと思うし、それまでの自分よりも少しでも早くゴールしたいと言う気持ちもあります。
ですが、もし走ることを続けられて記録が伸びなくなったり、「なんで走っているのだろう❓」と思った時にはこの言葉を思い出したいですね。
無駄なこと、非効率の中にこそ本当に大切なことがある。今後も走る際には、村上春樹のマインドセットでいきたいと思います。
以上が、『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで、走るモチベーションが高まった話になります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。