どうも。春休みなので今がブログチャンスだと思っている。この本はだいぶん前に読んだ本だが、非常に良かった気がする。
『経営リーダーのための社会システム論』である。この本は、かの有名な宮台真司さんの本だ。大学襲撃事件からはまだそれほど経っていないので、覚えている方も多いと思う。
はじめは、「クズ」とか言葉が強烈なおじさんだと思っていたが、本書を読んでイメージが変わった。言葉は悪いが、本気で日本をよくしようとしていることがめちゃくちゃ伝わってくる。
だからこそ、この宮台さんの考えをみなさんに伝えたい。
このブログだとその思考の2割くらいしか伝えられないと思う。しかし、私の行動も共に書いていこうと思うので、皆さんの参考になれば幸いである。
1共通感覚の欠如
つまり、第1に、法の外での外遊びの共同身体性を通じて、共通感覚を育んで「本当の仲間になる」営みが消え、第2に、家庭環境がまったく違ってもゴチャゴチャに混ざって遊ぶことで「誰もが共通感覚を持っている」という感覚を育む営みが消えました。それが友だちになりにくい状況を生み出し、それゆえにますます共通感覚を育みにくくなるという悪循環が回っています。
『経営リーダーのための社会システム論』より
引用文だけだとわからないと思うが、簡単にいうと「共通の体験がなくなったから、感情が壊れた人間が大量生産された」ということである。
自分の子どもの頃を思い出してみる。小学生時代、ほとんどの時間を友達との外遊びで過ごしたように思う。サッカーや野球だけではなく、秘密基地づくりなど。
秘密基地は、おそらく今では禁止されているだろう。(当時もダメだったと思うが)その、「ちょっといけないこと」を共有することも共通感覚を育むことになっているのだろうか。
また、遊ぶ相手も基本は同学年だったが、それだけではない。他の学校の子どもや、中学校の怖い人などいろいろな出会いがあった。
そこで、ある種の共通感覚が育まれたのだろうか。
それがないと、「感情が壊れて」電車で弁当を食べたり、化粧をしたりする人が現れるのだろう。周りの人との共通感覚がないために生まれているのではないだろうか。
これからは、そんな人がもっと増えていくのだろうと思うとゾッとする。
2ルソーと「われわれ意識」
ルソーが理想としたのは民主制の社会、それも直接民主制の社会でした。といっても、彼が擁護していたのは、直接民主制という制度そのものではなく、直接民主制がもたらす帰結です。具体的には、統治者も行政官も不要な、「みんなでみんなを統治する社会」の実現です。そのために必要となるのが「個人が、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考える」という感情的能力で、それがピティエです。
『経営リーダーのための社会システム論』より
ここでルソーがでてくる。ルソーといえば「社会契約論」「エミール」など。
私が、興味のある「民主主義」と「教育」の2大テーマである。
そんなルソーが、理想とした民主主義は「多数決によって決めない」もの。今では多数決がみんなの総意を得られる方法として認められていると思う。
ただ、少数派の意見が完全に無視されるような空気だと、本当の民主主義とはいえないだろう。自分のことしか考えない人がいると、民主主義は崩壊してしまう。
だからこそ、みんなでみんなを統治することが必要不可欠になってくる。その時に大切なのが、「ピティエ」ということになる。
私が、読んだルソーの言葉は「哀れみ」というふうに訳されていたような気がしたが、「ピティエ」の方がわかりやすい。
「感情が壊れた人」が増えていく中で「ピティエ」を育むことはかなり厳しい。国家単位で考えると不可能である。
だからこそ宮台さんは、小さなコミュニティを作ってそこで民主主義を作っていくしかないと言う。確かにそうだ。小さなコミュニティーをうまく回していくにはどうすればいいのだろうか。
3ファシリテーターとミメーシス
みんなにナッジを示し、巻き込み、エンパワーし、「これを決めたのは自分たちだ」と体験してもらえるように場づくりをする点で、ファシリテーターは「体験デザイナー」だと言えます。実は、ここでレクチャーしている僕のような教員も、映画や番組の制作者も、建築家や都市計画家も、潜在的に体験をデザインしています。
『経営リーダーのための社会システム論』より
さて、小さなコミュニティーのリーダーはどのような存在であるべきか。キーワードは「体験デザイナー」である。これには私もとても共感している。
ナッジとは「小突くこと」らしい、背中をポンと押してあげるイメージだろうか。指導者は、目立たずにあたかも自分自身がやり遂げたように感じさせられる人だそうだ。
確かに、この考えは良い。でも、先日ブログに書いた「ジェネーレーター」視点の方がさらに良いのではないかと思っている。もしよければ読んで欲しい。
裏方に徹するのではなく、集団の中で一番楽しくやってる人。私はこれを目指したいなと思っている。いわゆる「リーダー」のような役割はあまりやりたくないのである笑
引用にもあるように、教員にとっても非常に重要な要素であるのは間違いない。
ここでキーワードとなるのは「ミメーシス(感染的模倣)」の概念です。ミメーシスはもともとギリシャ語で、人が他者の振る舞いに対して感動や共感をおぼえ、内側からわき上がる衝動に従って同じ行動を取ろうとすることを意味します。
では「立派な人」の要件は何でしょうか。それは、利他的、倫理的であることです。
『経営リーダーのための社会システム論』より
そうそう。この「ミメーシス」を生み出すためには「ジェネレーター」的要素が必要なのではないかと切に感じているのだ。わかってもらえるかな。いや、もう少し説明していく。
「ミメーシス」とは、私なりに解釈すると「憧れ」である。ある人に対して「いいなー」「楽しそうだなー」と思うことから「ミメーシス」が始まる。
だからこそ、集団の中で一番汗をかき、楽しくやってる姿を見せることで、「やってみたい!」という「憧れ」を引き出すことができるのではないかと思っている。それが「ジェネレーター」である。
なんかうまくまとまった気がする。
最後に、宮台さんは上記の引用にあるように「立派な人」について語っている。ここで出てくる「利他的」が個人的にはキーワードである。
自分が楽しみつつ、相手にも楽しんでもらう。利己的かつ利他的な姿勢が、「ジェネレーター」であり「ミメーシス」を生んでいくのではないかと考えている。
なので、次のブログでは「利他」について考えていきたい。
と言うわけで、以上が『経営リーダーのための社会システム論』を読んで宮台さんにハマるになります。
最後までお読みいただきありがとうございました。