『思いがけず利他』から利他を考える

どうも。今日は利他の話だ。最近利他に非常に興味をもっている。ついこの間のブログにも利他のことを書いたので良かったらぜひ。

『経営リーダーのための社会システム論』を読んで宮台さんにハマる

このブログの最後に「立派な人」になるためには「利他的」であることが大切だという。では「利他的」とは何なのか。わたしもよくわかっていない。だからこそ、利他の本を今は読んでいる。

『思いがけず利他』という本だ。これは非常に面白かった。本書の冒頭にもあるように、利他とはうさんくささが付きまとう。例えば、人のために働くことを偽善と言う人がいる。

ある種それは正しいのかもしれない。だからこそ利他とは何かよくわからなくなってくる。

そこで『思いがけず利他』である。この本で、利他の構造を理解していきたい。

ただ、今現在ブログを書いている時点では、この利他のことを100%理解できている感じはしない笑

もしかしたら、解釈も異なってしまっていることもあるかもしれない。だが敢えてこのブログに掲載してみようと思う。

今回は、利他について3つのポイントでまとめてみた。皆さんの参考になれば幸いである。

1利他と与格構文

利他的になるためには、器のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要であると私は思います。数学者や職人のような「達人」は、与格的な境地に達した人たちであり、そこに現れた自力への懐疑こそ、利他の世界を開く第一歩ではないかと思います。

『思いがけず利他』より

「与格」これがキーワードである。本書では、ヒンディー語の文法を例にしている。ヒンディー語には主格と与格があり、主格は「私が〇〇する」など自分でコントロールができるものである。

これに対して、与格は例えば「風邪をひく」ではなく「風邪が私のところに止まっている」という表現をするようだ。

これは、自分でコントロールできないことに対して使う。だから、「私は嬉しい」ではなく「嬉しさが私の中にとどまっている」と表現するようだ。

また、利他とは自力を疑うことから始まるという。自力とは、自分でできる、すなわち自分でコントロールできるということだ。

それを本書は、土井善晴(料理)、志村ふくみ(染色)、柳宗悦(民藝)の例を挙げてわかりやすくまとめている。

自分で全てをコントロールできることができないと考えることから利他の道は開けていく。

2利他が発動する時

利他は相手の個性に沿い、ポテンシャルが引き出されたときにこそ生まれるという構造があります。だとすれば、私たちが「受け手」となって利他が起動するのは、相手の行為によって自己の能力が引き出され、主体性が喚起されたと感じたときではないでしょうか。

『思いがけず利他』より

利他は結局受け手の問題なのではないかということだ。送り手は利他だと思って行ったことが、受け手には利己に取られてしまうことがかなりあるのではないか。

『贈与論』で有名なマルセル・モースはゲルマン語圏の「ギフト」には、「贈り物」と「毒」の二種類の意味があると言っている。

贈与は贈り物のイメージがあるが、一方で「お返ししなきゃいけない」という呪いのかかった毒にもなるということだ。

確かに、バレンタインとかはかなり毒な感じがある。今年も、ホワイトデーに返さなきゃいけないという「毒」の要素を非常に感じた笑

だから、利他の「送り手」と「受け手」の時間が異なるということだ。「送り手」は過去にすでに送っている。文化であったり、伝統であったり。

それを、「受け手」が未来で贈られていることに気付く。ここに利他が生じるのである。だから、「利他」には時間差が生じる。

また、「送り手」として大切なことは、相手に「沿うこと」が決定的に重要である。

だからこそ、「送り手」は相手の気持ちを考え、相手の持ち味を活かす方法を考える必要がある。その一つの例として、沖縄の「ちばる食堂」や「注文を間違える料理店」が挙げられている。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/081400046/

http://www.mistakenorders.com/work/20180818.html

いずれも、認知症の方のがレストランで働いている。認知症の方々も、自分の持ち味を生かして働くことができているようだ。

これは、人に「思いがけず沿うこと」で実現できている。

私も、今の教育現場で一人一人の持ち味を生かし「思いがけず沿うこと」で、送るものがあるかどうかを考えていきたい。今できることを一生懸命に。

3偶然性と利他

重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。しかし、偶然が宿る器になることは可能です。そして、この器にやって来るものが「利他」です。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めます。

『思いがけず利他』より

著者は、「合理的な利他」を危険視しています。私も、この「合理的な利他」は一見わかりやすいので、この考えを採用しそうです。

「合理的な利他」とは、自分がやったことがまわり回って自分に返ってくる。「情けは人のためならず」という言葉がしっくりくるでしょうか。

このことわざの意味を借りると、結局は「自分のため」利己的な部分がでてきます。これが、「合理的な利他主義」です。「利他的な利己主義」とも言えます。

だからこそ著者は、「今を一生懸命に生きること」を大切にしている。

自分が一生懸命日々を生きる中で、思いがけず、ふと行なった行為が、未来において利他となって発動する。そんなイメージだと私は解釈した。

そんな中で、私ができることは、何だろうか。

あまり人のため、利他的なことは考えずに逆に利己的になるというのも一つなのだろうか。基本は人文のためにやっていることが、他人もいい意味で巻き込み一緒に楽しめたらいいなとは思っている。

だからこそ、今は読書会で雑談のチャンネルを開いたり、職場で研究カフェのようなOJTの場を作ることでそれを実現しようとしている。

これは、以前ブログにも書いた「ジェネレーター」のスタンスとも重なってくる。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』を読んで、感動した話

本書は再読することで新たに学ぶべきことも見えてくると思う。だからまた、後に読んでいきたい。

以上が、『思いがけず利他』から利他を考えるである。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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