久しぶりにブログを更新します。タイトルの通り、東浩紀さんが書いた「観光客の哲学」という本を読みました。
私は、普段哲学書はあまり読みませんが、この本はとてもわかりやすかったです。
この本から考えたことは、「観光客の哲学」は「教育」に活用できるのでないかということです。はじめに観光客の哲学について触れ、そこから私の考えを述べます。
1観光客の哲学について
まず私が気になったのは、「観光」の意味です。「観る」という字は分かるのですが、「光?」という感じです。調べてみたら、由来が書いてあったので引用します。
また、「観光」という言葉は、中国の四書五経の一つ「易経」の一文である「観国之光」が語源とされているが、それは「国の文化、政治、風俗をよく観察すること」、「国の風光・文物を外部の人々に示すこと」というような意味・語感を有していたといわれていること等も考えあわせると、いわゆる「観光」の定義については、単なる余暇活動の一環としてのみ捉えられるものではなく、より広く捉えるべきである。
https://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kansin/kansin2 国土交通省 HPより
なるほどなと思いました。ただの娯楽ではなく、それぞれの国をよく観察するという意味があるそうです。私は、過去に、アメリカ・タイ・ベトナム・インドに行きました。
私は、基本的に現地の方とできるだけ同じ目線でいるために、移動手段はできるだけ徒歩で行動していました。
本書は、この「観光」を「哲学」する本です。はじめに、「観光は世界をどう変えるか」という問いからスタートします。私が、特に大切だと思ったのは「誤配」という言葉です。
「誤配」とは、初めて聞くと「誤って配る」という配達の用語のことに思う方がたくさんいるのではないでしょうか。著者は、以前の著書から「郵便」と「誤配」という言葉を使っています。
本書に記載されてる「郵便」「誤配」について以下に引用します。
それに対して「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察をさす言葉である。本書ではその失敗を、『存在論的、郵便的』を引き続き「誤配」と呼ぶ。
(中略)
観光客が観光対象について正しく理解するなど、まず期待できない。しかしそれでも、その「誤配」こそがまた新たな理解やコミュニケーションにつながったりする。それが観光の魅力なのである。
『観光客の哲学』より
「誤配」とは観光でいうと予期しないコミュニケーションや観光地との出会いだそうです。この「誤配」こそが「観光」にとても大切なことだと本書を読んで感じました。
他にも「誤配」に至るまでの過程の部分も非常に面白いので、もし興味がある方はぜひ本書を読んでいただけたらと思います。
2観光客の哲学を教育に
さて、ここからが本題です。「観光客の哲学」の中心的な要素である「誤配」を教育に活かせるのではないかという提案です。具体的には、学校現場に様々なジャンルの方を呼んで子どもたちと関わるということです。
学校現場では、基本的には学生から採用試験を受けて教師になった人が、子どもたちを指導するということがほとんどではないでしょうか。
その中で、「学校」という一つの価値観のようなものができあがっているのではないかと考えています。「学校の先生は社会人経験がないから世間を知らない」ということをいう人がいますが、確かになあと思うところもあります。
子ども達にとって、同じような価値観をもった大人だけではなく、例えば、芸術家やサラリーマン、音楽家の人など様々なジャンルの方々と関わることで、より良いコミュニケーションを築くことができるのではないでしょうか。
学校を卒業すれば、いろいろな価値観を持つ人と関わることが多くなってくるでしょう。今後は、外国の方と接することも増えていくことが考えられます。
そのような未来のために、早いうちから様々な価値観の方と関わることは良いのではないかと考えます。
意図的に学校現場に学校外の方を呼ぶことが「誤配」となり、子どもたちにとってより良いコミュニケーションの力を育むことができると考えます。
本書を呼んで「誤配」を意識して教育活動をしていきたいと考えました。
また、「観光」についても展覧会のテーマに設定して取り組んでいこうと考えています。
コロナ禍ではありますが、私自身も「誤配」の作用を感じるべくできる限りの観光をしていきたいと思います。
以上が、「『観光客の哲学』を教育に活かす」になります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!