『先生はえらい』から学んだ3つのこと

前回に引き続き、内田樹先生の著書第二弾です。『先生はえらい』という本を読みました。この本は、なぜ先生偉いと言えるのか、中高生に向けて分かりやすく説明している本です。

途中でかなり本筋とは脱線している部分もありますが、最後にはスッキリとまとめられており一つの物語として美しいなと感じました。

今回はその中で特に感動した部分を3つにまとめてみます。参考になれば幸いです。

1対話の本質

気分のよい対話では、話す方は「言うつもりのなかったこと」を話して、「本当に言いたいことを言った」という達成感を覚えます。聴く方は「聴くつもりのなかった話」を聴いて、「前から聴きたかったことを聴いた」という満足感を覚えます。言い換えると、当事者のそれぞれが、そんな欲望を自分が持っていることを知らなかった欲望に気づかされる、という経験です。

『先生はえらい』より

対話は2人ではない第三者が出てきたときに、白熱するそうです。会話をするときには、まずは相手に何か言いたいことがあって話すと思います。

しかし、対話の本質は逆だそうです。対話をすることにより話したいことが見つかって「言いたかったこと」「聴きたかったことがわかる」とのこと。

なんとなく言われてみればそう思うこともあります。確かに、いい話ができたなと思う時は、お互いにふわっとした満足感がります。

それは、最初から決まったことを話して生まれたことではなく、話をしていくうちに盛り上がった結果できたものです。

職場でもたまにはそんな事が起こります。飲み会の場でもあったような気もしますが、飲み会が懐かしいですね笑飲み会は一方的に話してしまうことが多いので、難しいのかなと思います。

対話を考えるときには、この前提があるということを常に意識していきたいと思います。

2コミュニケーションの面白さ

ごらんの通り、コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから、「理解し合いたいけれど、理解に達するにはできるだけ先延ばしににしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。

『先生はえらい』より

これを読んで、コニュニケーションは誤解を前提としたものではないかと考えました。誤解するからこそコミュニケーションは面白い。

お互いが簡単に理解できる存在であれば、正直他人と関わる必要もないのかなと思います。相手のことを理解しようとしますが、完全には理解できませんよね。

だからこそ、少しでも理解しようと務めようとするのではないのでしょうか。だからこそ、簡単に言えば伝わることもあえて曖昧にして難しくしているのではないのでしょうか。

本書にも書いてありますが、「あなたのことはもうわかった。」と言われることがどれだけ苦しいか。わかったと言われた途端、もうおしまいだと感じる人が多いのではないかと思います。

この事を考えながら、コミュニケーションを楽しんでいきたいと思います。

3沓を落とす人

師が師でありうるのは、師がいかなる機能を果たすものであるかを、師は知っているけれど、自分は知らないと弟子が考えているからです。(中略)学ぶのは学ぶもの自身であり、教えるものではありません。「それが何であるかを言うことができないことを知っている人がここにいる」と「誤解」したことによって、学びは成立するのです。

『先生はえらい』より

「沓を落とす人」とは、『張良』という能楽に出てくる一場面です。簡単に言うと、師匠が沓を落したことで奥義を体得したという話です。ポイントは、師匠が2回沓を落したということです。

一回であれば、たまたまだと思うが、2回落したのには何か理由があるに違いないと感じてひらめいたわけです。そして大切なのは、師匠が何も意図していなかった可能性があるということです。

弟子の張良が勝手に解釈しただけという可能性も十分あります。しかし、このように誤解するからこそ教育の主体性は生まれるのであると私は解釈しました。

師匠には、何だかわからないがすごいことを知っていると弟子は考え、それが何であるかを必死で考えようとします。これが教育の主体性に繋がると考えます。

私も、師匠を見つけ学びを得ていきたいと思いました。

以上が、『先生はえらい』から学んだ3つのことになります。

最後までお読みいただきありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です