今日も教育の記事になります。前回に引き続き、苫野一徳さんの本です。
『勉強するのは何のため?』は文章が非常に読みやすく、中高生でも勉強の意義を考えることができると思います。
この本で私が一番印象に残ったのは、「学校に行くのは何のため?」という部分です。勉強する意義に関しては、自分なりの答えを探すということが大切であるというシンプルな答えでした。
「では勉強だけしてれば良いのであれば、学校に行かず家で自分の興味のあることを勉強するばよいのでは」といった声も聞こえてきそうです。
それに対する本書の答えとして、「学校は〈自由の相互承認〉の感度を育むための場所である」ことが書かれています。
〈自由の相互承認〉とは一体何なのでしょうか?該当する部分について、以下に引用します。
〈自由の相互承認〉という考え方は、とてもシンプルな考え方だと思います。私たちは、自分が〈自由〉に生きたいのであれば、「自分は自由だ、自由だ!」とただ主張して争い合うんじゃなくて、他者の〈自由〉もまた認める必要がある。そしてそのうえで、お互いの主張を調整し合う必要がある。ものすごくシンプルです。
『勉強するのは何のため?』より
この考え方を主に主張していたのはヘーゲルという哲学者だそうです。この〈自由の相互承認〉という考え方はここ最近読んだ本の中でも個人的にヒットした言葉です。
おそらく、哲学史を学んでいる人からしたら「当たり前じゃあないか」と言われるかもしれません。ヘーゲルまでのの哲学者がいかに争いのない平和で自由な世界を望んでいたがが本書に書いてありました。なんか歴史の面白さ、ロマンを感じる箇所で感動しました。
そんな、哲学者たちの叡智が詰まった〈自由の相互承認〉、教育の場でこそ大切な考えです。前回の記事で体罰の是非について少し書きましたが、この〈自由の相互承認〉の考え方でいくと圧倒的にアウトになります。
暴力は自由の考え方から一番遠い考えです。なので私は、子どもの暴力に関してもかなり厳しく指導するべきだと考えています。
また、著者はいじめのことも書いていて、簡単に言うと、いじめは教師の「信頼と承認」、「蜜を作らない」でなくすことができると述べています。
この〈自由の相互承認〉という考え方を学校現場でも広げていこうと考えています。
以上が、『勉強するのは何のため?』から学校の意義を考えるになります。
最後までお読みいただきありがとうございました。